さわやか法話 52 「中道」

 お盆が終わってやれやれと放心状態、うつろに過ごしていると何をまとめてよいやら、何を書いたらよいやら、見れども見えず、聞けども聞こえずと、この法話もだいぶご無沙汰になっており、失礼してしまいました。
 お釈迦様もこんな話を伝えています。お釈迦様もおさとりを開こうと六年間に渡って無茶苦茶な苦行をなさっていました。「一麻一米」といわゆる苦行を修したこともあったと言われます。一麻というのは一粒の胡麻のことで一粒の胡麻と一粒の米の他は一切の食べ物を断つという苦行であったわけでお釈迦様は髪はよもぎのようになり、眼はくぼみ落ち、骨はあらわれて、腹の皮と背の皮がくっつきそうになった。だが、それにもかかわらず真のおさとりは開けない。その時、付近を歩く農夫の民謡が聞こえてくるのです。「絃が強すぎると切れる、弱いと弱いでまた鳴らぬ。ほどほどの調子にしめて、上手にかきならすがよい」 はっとお釈迦様の心の中に霊感がひしめき、すっぱりと苦行を止められるのです。「苦行は真の解脱(悟り)を得る修行ではない。生気のない身では道を得ることはできない。道を成就するには身に生命力がみなぎっていなければならない。私は食を受け、身に力をよみがえらせ、真の悟りを開かん」と、心に誓われ、悄然と山を下りられたのです。これが仏教の基本的な姿勢『中道』の教えにつらなる挿話なのです。喜びにつけ、哀しみ、怒り、そして楽しい時につけ、良きにつけ、悪しきにつけ何事もほどほどが肝心、絃が強ければ切れる、弱ければまた鳴らぬ。中年を過ぎたらほどほどの調子にしめて、上手に生きなければとしみじみ感じいったことでした。
 碩水寺の仏像の中に「出山の釈迦」の仏像があります。お釈迦様がこのお悟りを開かれて山を下りる時のお姿です。仏像のページに載せてありますのでご覧になってください。