出山の釈迦

 29歳で出家したお釈迦様は托鉢遊行の生活を送ったのち、ヒマラヤ山中でバラモン僧について6年間の 苦行生活に入ります。断食をしたり熱をもって身を焼いたり、高い岸壁から落ちたり、と苦行の日が進むにつれて衰弱し死と紙一重というところまでいってしま います。そこでお釈迦様は苦行の無意味さに気がつき「苦行は真の解脱(悟り)ではない。」と悄然と山をおりられたのです。この像はその時のお姿の像です。 ぼんだ眼、やせおちた頬、決意を秘めた口もと、そげおちた胸に、つきでたあばら骨、やぶれた衣を風になびかせたそのお姿は 不気味なほど幽気にあふれてい ます。     


 昭和50年代のころ、はからずもこの仏像に対する証明の文書を発見しました。この文は明治のころ、京 都、知恩院の管長でありました鵜飼徹定師のお書きに なったもので明治13年10月と記されています。徹定師は、たまたま近隣の寺院に順教のため出向されており、碩水寺二十丗俊峰住職とは厚く親交をむすんで おられたようです。その文面によりますと、この釈迦像は、明治の廃仏毀釈の折、巷に投げ出されたものであります。たまたま村の中藤桂斉画伯がこれに目をつ けられ 買い取って自分の画室に安置しておいたものであります。そのころ俊峰住職は桂斉画伯と親交深く、時折画室を訪れてこの釈迦像を見、この像を祀って 一寺を建立しようと考え画伯に相談し、画伯もそれに賛同して俊峰住職に献上することになりました。俊峰住職は早速この像を碩水寺に迎え、一寺建立に八方手 を尽くしました。努力がみのり、諸般の準備もでき、寺名も「見星山成道寺」と定めて寺院建立に着手しようとした際、78歳をもって遷化されてしまいまし た。この文中によりますとこのお仏像は今から五、六百年前のものと思われます、惜しいことに作者が不明であることです。