さわやか法話 51 「アラヤ識」

 仏教の用語で、私たちの心の奥、心の深いところを「アラヤ識」と言います。今風に言えば、深層心理と言うのでしょう。アラヤとは【蔵】ということです。世界の最高峰はヒマラヤ山脈です。これはヒマ、アラヤでヒマとは雪という意味です。万年雪が幾重にも堆積されている蔵というわけなんです。
 そこからも分かるようにアラヤ識、つまり私たちの心とは、蓄積、堆積されている蔵のようなもので、私たちが今日までずっと生きてきた、その経験やそれに伴う感情、知識などが記憶として心の深層にちゃんと貯えられているのです。まあ、子供の頃からのことを振り返って考えてみても、いやな記憶、失敗した記憶、恥ずかしかった記憶、ああしたらよかった、こうしたら良かったという悔恨の情、不平や不満など、などの諸々の記憶がちゃんと深層に貯えられてあり、いつもは忘れたつもりでいるのです。折に触れ、縁にふれると、善し悪し、好き嫌いの感情とまつわりついて、フッと飛び出して来る、それがこころの深さ、複雑さ、「幽霊の正体みたり枯れ尾花」で、幽霊なんて本当は見たこともないのに、小さい頃教えられた話が、心の奥にかくされているから、暗がりにゆれる枯れススキを見て、幽霊だとビクビクしてしまうということです。修行時代、お師匠さんからよく言われました。「おまえたちの心の蔵は、漬け物小屋の隅にころがってある古桶のようなもの、腐った糠がこびりついており、塵やらゴミやら木の屑やらでどうにも醜悪きわまりないものだぞ。それが凡夫の心だ、修行とはそいつをごしごしタワシで洗うんだ、こびりついた汚物を少しでも洗い清めるのだ」と、言われたものでした。
 新しい年が始まります。今年も心にいろいろなものが貯まっていくことでしょう。でも、少しずつタワシでこするように心の浄化をはかりながらまいりたいと思います。