さわやか法話 45   和敬静寂

 「わけいせいじゃく」と読みます。これは、茶道より出た言葉であります。「和」とは、なごやかとか、仲良くというだけでなく、和合の意味がふくまれております。精進料理にお菜のごま和え等がありますが、それは二種類以上の材料をまぜていわゆる和えて、「第三の味」が生まれ始めて美味になるのです。それぞれの材料がめいめい勝手な味を出していては、和え物になりません。和合は混合とは違います。人間の集まりが互いに勝手な振る舞いをしていては、社会も団体もなりたちません。義理や人情を大切にせよというのではありません。各人のそれぞえに異なる個性を和えあうのです。お互いの持ち味を生かしながら、しかも誰にもない第三の風味が生まれて初めて人間の和が成り立つのです。「縁は異なもの味なもの」と言うではありませんか。和は、平和に通じます。しかし、戦争をしないというだけが平和ではありません。各人の心にある、憎しみ、怒り、怨みなどが整理され、それが和えられて始めて人の心が平和になるのです。怒りや憎しみの牙をひそかに磨きながら平和運動を唱えても無駄だと思います。禅宗でも茶道家でも「心の平和」に努力していますのは、ユネスコ憲章の「一人一人の心が平和にならなければ、真の平和は生まれない」 というこころに通じます。「和」が実感できるようになると自然に他を「敬」わずにはおられません。また、お互いに敬いあってこそ和が生まれてくるのではないでしょうか。お互いに和して敬する気持ちが生まれてきますとその人間関係というものは互いに清々しいものになってくると思います。清々しいとはせいせいとも読みます。こだわるものもないせいせいした生活、それはどんなに美しいものでありましょう。「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」 と儒教で言いますが、この区別が 大切です。個性を生かしながら和し、和しておぼれてしまわない境目が大切です。それが「寂」のこころであり、静けさであります。寂は煩悩の火の静まった状態です。ちょうど、「わら」を焼く時と同じです。はじめはもうれつな炎をあげますが、燃え尽くして、ほんのりと暖気を残す「わら火」の状態が寂だと考えてもよいと思います。消えたのではない、心中にほのかなぬくもりを貯えているのです。このわら火が水に溺れた人を暖めて蘇生させるように心の冷え切った人を生き返らせる慈悲の知恵の働きになるのです。煩悩が知恵にまで和えられる「和敬静寂」、これが本当の禅の心だとお考えいただければよいと思います