さわやか法話40   『碎啄同時』

 「碎啄同時」 そったくどうじ と読み ます。「碎」の音は、正しくはサイですが、普通「ソツ」とも「ソク」とも読みならわしています。この言葉には深い意味が含まれていまして、「機を得て両者 相応ずる得がたい好機」といいます。ちょうど鳥の卵がかえるとき、雛が内から、吸ったりついたりするのを啄と言い、親鳥が外からつっつくのを碎といいま す。人にものを教える時、相手が知ろうとする熱意が表れた時、教えこむのが、教えのこつであります。親鳥の碎と雛の啄とが少しでもずれたら生命は継承され ません。
 親が子を躾けるのにも、子供がそれに対する意欲が湧いてきた時に与えるのが、本当の教えではないでしょうか。子供の欲しないものを、親の感傷やら見栄で 押 し付けているのではないでしょうか。ここには本当に教えるというものが失われているのではないでしょうか。学校の教師も、子供の求知意欲の起こってきた 時、これに教えこんでこそ、その子供の本当の力になるものだろうと思います。今は亡き、ある総理大臣が、その在職中は「待つ政治」つまり機の熟するのを待 つということを言っておられましたが、国民自体の中に求める心の現れた時、与えるのが一番有効な策であると言われていました。この碎啄同時を心がけておら れたものと、今も忘れられないものであります。これは、決して学業のみのものではありません。植物を相手とする農業面にも言えることであります。植物には 植物の要求があります。その要求のあるところに、施しをすることが立派な作物を得ることでありまして、一度タイミングをはずせば、それは収穫物として用を なさないものになります。ことのすべて、この碎と啄との意気があい合することにつとめてまいりたいものであります。
                                  栄雄