さわやか法話 39  白露の候・・・

 まさに白露の候、ですね。鐘楼に登り、辺りを見回してみますと、昨夜は霧雨が降ったのかなと見違えるほどに、夜露がしっとりと庭や木を濡らしています。朝のしじまに露が白く光り、しっとりと静かに私の心を潤してくれました。このような露に濡れる心に接して、道元禅師のこんな話があります。
 『善者に親近すれば、霧露の中を行くが如く、衣を濡らさずといえども、時々に潤いあり』 すなわち師と弟子、教育者と生徒、そして家庭での導き手である親と子の、そうした教育にかかわるものはきもに命じ、魂に命じて、繰り返し、繰り返し、いましめていく大切な心がけだと教えてくれる言葉です。
 善者とは、良き人、つまり『良き導き手』ということ。そんな良き導き手に親しく近づいていると霧や露がいつのまにか自分のほほを、着物を潤してくれるように良き人の教えが、徳が身にしみて体得されてくるようだという意味合いでしょう。そんな魅力的な善者に親しくして、これを学んだからこれがよくなった。これを教えてもらったから急に実力がついた、そんなインスタントな教育は本物ではない。じっくり、じっくり心に滲み込んでくる教育が、導き手の影響力が、大切なのです。
 「あの人は本当に善い人だ」 「あの人はどうしても居てくれなければ困る」 「あの人が居てくれるから何とかやっていける」 そんな善者が、導き手が、自分の側に居てくれたらどんなに素晴らしいでしょう。そして又、私達は家庭にあっても、社会にあっても、何かの役割を担っていて、それは又、回りの人々に何らか影響を及ぼして生きています。多かれ少なかれ、何かの導き手でもあります。
 さあ、私達は善者でしょうか。良き導き手であるでしょうか。萩の花咲く秋の彼岸、朝露に濡れながら、私の及ぼす影響力はどうだろう。静かに反省してみたいものです。
                                        栄雄