さわやか法話 38  一滴の水にも・・・

 空梅雨の日照りが続いています。又、今夏も水がめのピンチ。田に水が入らない、畑の作物が枯れそうと毎日空を眺めてはため息をついています。水を大切にしましょうと節水を呼びかけています。一滴の水の尊さは渇きを癒す、それだけのことでなく、もっと重要な心を表しています。
 こんな話があります。「こら、もったいないことをするでない。 一滴の水にも命がある。草や木が日照りで泣いているのがわからぬか。根にかけてやれば喜ぶものを。」と、大声で怒鳴られた一喝で、その雲水は己を振り返り、人生の一大事を悟った。この日から名を滴水と改め、後の嵐山天童寺管長、明治の大傑僧、由利滴水がこの怒鳴られた雲水であったのです。滴水の門下には、あの山岡鉄舟が知られ、教えを汲むその法系の流れの中からは、西田幾太郎、鈴木大拙といった日本を代表するような哲人が排出したのでした。これは世に「曹源の一滴水」という語で知られたエピソードです。
 岡山曹源寺に儀山善来という大禅僧が居り、その名声を頼って大勢の修行僧が参集していた。ある夕方、善来禅師が風呂に入ろうとしたら、お湯が熱すぎた。ひとりの雲水が水桶をかついできて、 湯に水をうめた。そして桶に残った残り水をホイと庭へ捨てた。見ていた儀山が大声で怒鳴った。 それが「もったいないことをするでない。」の一喝であったのです。 儀山は北陸若狭の海岸沿いの貧寒な僻村の出身で、おいしい水の湧かない、 山畑に水をためて稲をつくり、自然の脅威と闘って生きる、日照りには夕立を溜めて飲み水にした。 「草や木が日照りで泣いている。根にかければ喜ぶものを」の威言は一滴の水に泣き、干ばつに泣いた故郷の父母のひもじさ、貧しさといった嘆きがこもっていたのでした。 『曹源の一滴水』、今、炎暑に疲れ気味の私の心に、何かしら静かな潤いがしみ出るような気がします。 そして、水は農作物やのどの渇きを癒すばかりでなく、私たちの心に浸る、 こんなやさしい潤いの水を汲み上げて生きることの大切さを思います。
                                     栄 雄