さわやか法話  『平常心是道』

 昔、中国に馬祖道一(ばそどういつ)という禅僧がいまして、次のようなことを言いました。「もし、道というものをずばり言うとするならば、日常の心が即ち道である。そして何が日常の心であるかというと、それは肯定(よい)でもなく、否定(わるい)でもなく、取るとか捨てるというものでもなく、又、あたりまえでもなく、すぐれたものでもない」と言われました。
 その馬祖のお弟子に南泉という人がいました。この南泉が弟子の趙州と次のような問答をしました。
 趙州「道とはどのようなものですか」
 南泉 「日常の心が道である」    
 趙州 「その日常の心をつかむことを目標にすればよいのですか」    
 南泉 「何か特別にそのようなものがあると思って探し求めたならば、益々道がわからなくなるぞ」    
 趙州 「それを目標としなければ、どうしてそれが道であることがわかりましょうか」    
 南泉 「道は知るとか知らぬとかいう知識には関係がない。もし本当に疑いのない世界に行くことができれば、自分の心もすっきりとして晴れわたる。ああのこうのと言う必要はない」
 と答えました。趙州も本当にわかったという故事があります。つまり、どんな場合でも心をこめて自分を失わないことです。私どもの本山総持寺をお開き下さった瑩山禅師は、この言葉を    『飯に逢うたら飯を喫し、茶に逢うたら茶を喫す』つまり、ご飯の時、お茶の時、という日常の生活、一つ一つに心をこめて大切にしなさい。それがみ仏の道であり、み仏に導かれる私たちの真の姿であり、人生道ですよ、と教えています。
 ご飯の時、「いただきます」と心から言える人は、きっとお米の尊さが解っている人であり、立派な人生を歩んでいる人でしょう。平常、「いただきます」というたわいない行いも「いただきます是道」であることを忘れないで下さい。
                                        栄雄