さわやか法話 24   色即是空

   「骸骨の上を装うて花見かな」
 のっけから何やら不気味な歌をご紹介しましたが、桜前線の北上と共にあちらこちらで 花をさかなに賑やかな宴が催されますが、まだまだ信州では梅も蕾、仕事にも追われ、 それどころではないと少々意地悪く、冷ややかに花見の宴を考えてみたというわけです。 この歌は上島鬼貫(うえしま おにつら)という、松尾芭蕉とほぼ同時代の俳人のもので、 大阪の伊丹にこの句碑が建っていて、若い娘さんたちにも結構な人気だそうで、どこか心の底で頷ける共感があるのでしょう。 骸骨のうえを装って、つまり、きれいにお化粧し美しい衣装で着飾った娘さん、その娘さんを透視光線で映しますると、 ごつごつした骸骨がるいるいと見える。若々しい女性が美しい装いをこらして、 お花見としゃれこんで浮かれているが、いつかは骸骨だけになる。 滅びの時はやがて来るんだぞと言っているわけで、目にみえる美しい、好ましい姿の中に、 変化し、崩れ、壊れ行く事実があり、その骸骨という、みにくく好まざる事実を見とおしてみる智慧、 そんな智慧を持つことが大事なことだと考えさせられます。 「色即是空・空即是色」の趣がよく表されているのです。『色』をイロと読んで、 男女の色事は所詮はかなく、むなしいなんて妙な言い訳に使われてしまっていますが、 そんな薄っぺらなことじゃない。『色』とは目に見えるもの、形あるもの、『空』とは条件や縁によって変化し、 壊れ、移ろいゆくもの、ということ。すべての物事は変化し移ろい行く、 その空しさをジックリ味わい、納得しなければいけない。それが「色即是空」です。 目に見える現象の底に何があるかということも、同時点で見据える心の眼を持つことなんです。 ようやく開いた花を愛で、仲良き友と酒酌み交わす団欒、花見の宴は無上の楽しさです。 が、またその楽しさの中で、「色即是空」の人生模様も興に添えて味わってみては如何でしょう。
                                 栄雄