さわやか法話 22  年頭に当たり

 新しい年が皆様にとりましてよりよき年でありますよう、まずもって心から お祈り申し上げます。
 今年も多くの善男善女が除夜の鐘を響かせてくれました。打つ鐘は同じであっても、ゴーンと消えてゆく余韻のなかには、 時には大きく、時には小さく、聴く者の心にいろいろな意味合いをもって滲み込んできます。 ゴーンと消えていく余韻の中には打つ人の思いや願いが込められているからでしょうか。
 明治の傑僧に奕堂(へきどう)禅師という方がおられます。ある冬の寒い朝、 修行僧と共に座禅をしていた奕堂禅師は鳴り響いてくる鐘の音を聞いて「不思議なことだ。 いつも聞きなれたはずの鐘の響きは、今朝に限って身に染みとおる厳しさを感ずる・・・。」
 やがて部屋に帰った奕堂禅師は鐘をついた修行僧を呼びました。新米の小僧でした。「今朝の鐘はお前がついたのか」 「はっ」、撞き方が悪くて叱られるとでも思ったのか、小僧は平身低頭しました。 「いや、撞き方が悪くて呼んだのではない。お前がどんな気持ちで鐘をついたか聞きたいだけだ。」 「はい、鐘を撞くのは仏の声を聞くのだ、仏様を撞き出すのだ。だから一撞き、一撞きに心がこもらねばならぬぞ、 と師匠が教えてくれました。今朝、初めての当番でしたので、師匠の教えを心に深く念じつつ、 満身の力をこめて撞き、一回一回合唱礼拝したのです。」 「そうか、その一瞬一瞬に全身全霊がこもる、それこそ禅の教えだ。その気持ちを忘れずに修行しなさい。」と、 奕堂禅師はさとしました。
 この小僧さんは後に永平寺六十四世の禅師となった、森田吾由禅師、その人でありました。 一撞き、一撞きに心をこめる、それは私達の一挙手、一投足に、ハシの上げ下ろしから、仕事のあれこれ、 つまり自分の行動に心をこめていくということでしょう。心のこもらぬ、うわの空といったことはしたくないものです。
                                  (栄雄)