さ わやか法話 19  行持報恩

 久しぶりに祖父、おじいさんの夢をみました。
 子供のころ、母方のおじいさ んが同居していてくれて、よく面倒をみてくれていました。 幼い頃の想い出はそのじいさんの温顔がいつも浮かんできます。私は男三人、女二人の五人兄弟の真っ只中、 他の兄弟はまあまあ、立ち居振る舞いにしても物覚えにしても、調子よく、 素早くこなしてしまうのに、私だけはどうも遅れをとり、特に算数、数字にかけては大層鈍かったらしく、 それがおじいさんには 気にかかって心配でしょうがない。 よく、私だけがお風呂に引っ張って行かれまして、そして風呂の中にソロバンのように木の玉のいっぱい付いている、 あの数字を覚える為のおもちゃを湯に浮かせては、一つ、二つ、これを足してはいくつとやられました。
 「修証義」の五章、行持報恩に『一句の恩,尚お報謝すべし、一法の恩尚お報謝すべし、 況や正法眼蔵無上大法の大恩これを報謝せざらんや』とあります。本当です。 何一つとして報われなかったものはない。誰かが優しく支えてくれたればこそ、一つの言葉も、 一個の数字も覚えられたのであり、そして複雑な高度な生きてゆく為の智慧までも、今は何とかこなせるようになっている。 私たちが成長し、生きていけるのには、社会の法、道理というものを、知識として 守っていればこそで、 「法にかなった生き方」と言うではありませんか。「いいか、一つ一つ覚えていけば何とかなるもんだ」と、 諭してくれたジイ様の言葉が胸に残ります。今、こうして僧侶として、少しでも法を説く身として、焦ることなく、 今日よりも明日、明日よりも次の日と、努力、精進して生きていきたい、そんな心がけだけは無くしたくない、 と心に誓えるのも、あのジイ様の大いなるご恩があったかと 思えるのです。
 亡きジイ様を思い出しています。やはり、今年も又、お盆の時節です・・・・・・。
                              (栄 雄)