さわやか法話 12    ”観世音”

 青葉若葉の風薫る一年中で一番の好時節です。外へ飛び出して行き観光に浮かれたいのもうなずける気分です。
さて、観光の”観”、その”観る”ということに目を向けてみました。 観は観世音菩薩の観、そして「般若心経」の冒頭観自在菩薩の観ですが、 観世音を略して”観音”音は聞くべきであるのに「音を観ずる」というのです。 観音菩薩さまは「若し無量の百千万億の衆生人々がありて、諸々の苦悩を受け その時この観世音菩薩のことを聞いて一応に南無観世音菩薩とその名を称えれば観音さまは 即時にその声を観じて皆解脱することを得さしめんつまり救いを求める者の姿に応じて、 自ら三十三身千変万化の相を現じて、お救いの手を差し伸べてくださると「観音経」に説かれ、 お慈悲の菩薩さまとして広く信じられているわけです。”その者を観じて・・・” という観が重要な意味を持っていることがわかります。  ”観”は辞典には「明らかに見ること」とありますが物事をより積極的に受け取って、 音や声、言葉、そして目に映る物事のその底に何があるのか言葉や音声になる前の心は何であるのか よく見てみること、それが観なのです。
 赤ん坊が泣く。言葉も意志の伝達も知らぬ赤ん坊はことあるごとに泣きます。 その声によってお母さんは空腹かおしめのよごれかが見えるではありませんか。 それが”観”の極意なのです。又、子の額に手をあてただけで子の病状が分る。 手に目があり、心が手になっている。他人には赤ちゃんの声は一様に聞こえても 母は我が子の泣き声で目に見えないものが良く見えるそして手を差し伸べてくれる こんなやさしさを慈悲心といいますが,私たちの回りに、目に映る物事に こんな”観”のまなざしを注いでいきたいものです。